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1: 2025/03/04(火) 23:57:48.61
https://diamond.jp/articles/-/359848
 「仕事終わりにビールを飲めるから、つらい仕事も頑張れる」と考える勤め人は多いだろう。かくも人間は何かに「依存」して生きている。
※略
では、なぜ快感にほど遠い自傷行為が習慣化することがあるのか?
※略

■このご褒美があるから頑張れる!「依存」と「依存症」の違い
依存症とはどんな病気でしょうか?
ここで注意すべきなのは、「依存」と「依存症」は別であるということです。
断言しますが、依存は決して悪いことではありません(ここを誤解すると、マッチョな自律論や自己責任論が噴出してしまいます)。
実際、みんな何かに依存していますよね?
仕事を頑張ったご褒美として、帰宅するなり缶ビールのプルリングを開けたり、ケーキやチョコレートといった甘いものを自分にごちそうしたりなんてことは、誰だってやっていることです。
※略

たとえば、毎日大麻煙草をふかす人と、毎晩お酒を痛飲する人を比較してみましょう。
前者は、逮捕によって「社会的に殺される」ことを危惧して治療の場に登場することがありますが、皮肉にも心身は健康そのもので、
「こんな元気な人が精神科に受診してもなぁ」と複雑な心境になります。
一方、後者は、すでに肝臓がボロボロになり、土気色の顔をした、半ば瀕死の状態で診察室に登場し、
「ちょっと来るのが遅かったなぁ。この状態だと精神科の前にまずは内科だなぁ……」と、別の意味で複雑な心境になります。
ここに依存性薬物(あ、アルコールはれっきとした薬物ですよ)の謎があります。
実は、ある薬物が違法か合法かといった区別には、明確な医学的根拠などないのです。少なくとも「健康被害や依存性が深刻だから違法」ではありません。
主流派に愛されている薬物は合法で、少数派に愛されている薬物は違法と、どちらかといえば多数決で決まっています。
※略

国連が2016年に刊行した『世界薬物報告書』によれば、過去1年以内にヘロインやコカイン、覚醒剤の使用経験のある人のうち、依存症の診断基準に該当する人は1割強程度です。
そもそも、世の大半の人が使用しているアルコールだって、実は相当に強力な依存性薬物ですが、依存症になる人はごく一部です。
断言しますが、人間はきわめて飽きっぽい動物です。
どんな気持ちがよいもの、どんなおいしいもの、どんな面白いものでも、手を伸ばせばいつでも楽しめるものとなれば、ありがたみが減じ、あっという間に飽きてしまう──
それが人間の性(さが)です。
※略
そんな人間なのに、なぜ一部の人は飽きずにある薬物をくりかえし使用し、あるいは、ギャンブルやゲームに執着し、人生のすべてを犠牲にしてしまうのでしょうか?

■依存症の本質は「快感」ではなく「苦痛の緩和」にある?
思うに、彼らをその薬物に駆り立てているのは快感ではありません。というのも、快感ならばすぐに飽きるはずだからです。
おそらくそれは快感ではなく、苦痛の緩和なのではないでしょうか?
つまり、人は、かつて体験したことのない、めくるめく快感によって薬物にハマるのではなく、かねてよりずっと悩んできた苦痛が、その薬物によって一時的に消える、弱まるからハマるのです。
快感ならば飽きますが、苦痛の緩和は飽きません。それどころか、自分が自分であるために手放せないものになるはずです。

ちなみに、苦痛の緩和に役立つのは、心地よい酩酊だけではありません。一般的には「苦痛」と捉えられるものですら役に立つことがあります。
たとえばリストカットのような自傷行為を考えてみましょう。確かにいずれの行動も、一見すると、快感にはほど遠い行為です。
しかし、それでも、それよりもはるかに大きい苦痛から一時的に意識を逸らすのに役立つ可能性があります。そうであればこそ、リストカットはしばしば習慣化するのです。

こうした観点は依存症臨床ではよく知られているものです。かつて米国の依存症専門医エドワード・カンツィアンは、
「依存症の本質は快感ではなく苦痛であり、人に薬物摂取を学習させる報酬は快感ではなく、苦痛の緩和である」と指摘し、「自己治療仮説」という考え方を提示しました。
この自己治療仮説は、私たちに依存症の本質を教えてくれます。
それは、依存症は確かに長期的には命を危険にさらしますが、皮肉なことに、短期的には、今いるしんどい場所や状況に踏みとどまり、
「死にたいくらいつらい今」を一時的に生き延びるのに役立つことがある、ということです。
※略


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Source: 理系にゅーす