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1: 2022/01/07(金) 07:41:59.23
https://news.yahoo.co.jp/articles/5819a28eb17961d211f9f1b537e43378499aa655
 江戸時代初期に起こった農民やキリシタンによる島原・天草一揆(島原の乱、1637~38年)で、鎮圧に当たった九州の大名が抱えていた
「忍者」が暗躍していたことが、近年の研究で明らかになってきた。
九州では忍者の存在はあまり注目されてこなかったが、忍者によるまちおこしを目指す動きと連動して各地で史料分析が進んだ。

古文書から松江藩などで忍者の存在を裏付けた三重大国際忍者研究センターの山田雄司教授(日本中世史)は、忍者でまちおこしを目指す佐賀県嬉野市や、
NPO法人「福岡忍者普及協会」(福岡市)から、それぞれの地元で忍者が実在したか調査を依頼され、2017年から九州の古文書を調べている。

山田教授によると、島原の乱では幕府の老中・松平信綱が島原へ向かう途中、甲賀(滋賀県甲賀市周辺)の忍者10人を迎え入れ、
一揆勢が籠城(ろうじょう)した原城(長崎県南島原市)の情勢を探ろうとしたことは従来の忍者研究で判明していた。
ところが、従軍した松平の長男輝綱が残した日記「嶋原天草日記」によると、城中の一揆勢が九州弁とみられる「西国語」を話したり、
キリシタンの言葉を唱えたりして、甲賀忍者は内容が理解できなかった。
山田教授は「忍び(忍者)は敵に紛れて情報を集めるが、突然起こった一揆で言葉を覚える時間がなかったのでは」とみる。

代わりに活躍したのが九州の忍者だった。
山田教授は20年の調査で、福岡藩の歴史書「黒田続家譜(ぞくかふ)」に「忍の上手」な「新野十助(にいのじゅうすけ)」という人物が原城に忍び込み、
証拠として兵糧や障子を持ち帰ったとの記述を発見。
新野は鉄砲が得意で、食料が尽きた一揆勢が原城の外に出て海辺の磯菜を摘んでいるところを遠くから狙い撃ちにし、食料調達を阻んだとの記載もあった。

また、佐賀藩に関する史料の中には「吉田千左衛門」が原城に忍び込む際、後ろから撃たれないように、味方に弓矢を放たないよう頼んだことを示す記述もある。
やぶの中に隠れた吉田が、城から出てきた一揆勢の1人を生け捕りにして城内の様子を聞き出すことに成功し、白銀を賜ったとも書かれているという。

忍者と島原の乱の関係に着目した研究は他にもある。
研究者らでつくる国際忍者学会の会誌「忍者研究」(20年8月発行)には、熊本藩に存在した「御忍之衆」と呼ばれる組織の関連史料を分析した論文が掲載された。
論文によると、御忍之衆には「服部」「美濃部」など伊賀や甲賀の地名を名字に持つ者が多く、石垣を登る際などに使われる
「くない」と呼ばれる忍者独特の道具を鍛冶屋に発注した記録も残っていた。
島原の乱では、御忍之衆に名を連ねる「吉田十右衛門」が、一揆勢の首領だった天草四郎時貞の屋敷に火矢を放ったとの報告書などもあり、
忍者が原城攻略に重要な役割を果たしたことを示す。

もっとも、九州の忍者研究は始まったばかりで、忍者がどこに住んでいたのか、どのような訓練を積んでいたかなど解明されていない謎は多い。
鹿児島市にある猫神(ねこがみ)神社には、薩摩の島津氏が朝鮮出兵(1592~98年)の際に猫を連れて行き、瞳孔の開き具合で時間を計っていたとの言い伝えが残る。
山田教授によると、この手法は江戸時代前期の忍術書「万川集海(まんせんしゅうかい)」にも掲載されており、九州の忍者が朝鮮出兵の際に同行した可能性もある。
「九州にはキリシタンが多く、出島もあった。忍者がスパイのように活発に活動して外国人らの動向に目を光らせていたことも考えられる。精力的に調査したい」と話した。

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Source: 理系にゅーす