■森の奥、静寂に包まれて
近鉄奈良駅を降り、車に乗り換え市街地から田園地帯を抜けて東に走ること約1時間。剣豪として名高い柳生十兵衛ゆかりの地、柳生の里がある。さらにそこから川沿いに3kmほど南下すると、奈良市大保町(旧大保村)尾羽根という小さな村落に辿り着く。
ここは日本でほぼ最後の、「土葬」の風習を守る村落の一つだ。
※省略
土葬文化には、両墓制といって「参り墓」と「埋め墓」のふたつを設ける習わしがある。急勾配の山道を10分ほど歩くと、高台に参り墓が並んでいるのが見える。
普段の墓参は、この墓地で行われているという。その場所からは、本殿が県の指定文化財となっている八坂神社を北に見下ろせる。
この参り墓に参った後、墓地の脇にある急峻きわまりない小径を登ると、鬱蒼とした森の中に埋め墓があった。
※省略
このあたりで最後に土葬が行われたのは3年前だという。当時の話を聞こうとすると、「村岸さんに話を聞くのがええ」と勧めてくれた。
「村岸さん」とは、尾羽根から山を一つ隔てた大柳生町で、東福寺という真言寺院を守っている住職だ。これまで尾羽根で行われてきた土葬で数多くの引導を渡している。
※省略
村岸さんに、なぜ遺族が土葬を望むと思うのか聞いてみると、こう語った。
「土葬は準備期間も含めると3日間はかかります。大変ですが、手間と時間をかけることで死を受け入れられるようになる。残された側にとって、心のけじめがつくんです」
尾羽根を訪れた翌日、近所で初盆の手伝いをするという大窪さんについていき、他の村人たちにも話を聞いた。
※省略
「手間をかけることが大事だと思うんです。土葬も同じじゃないかな。地域のみんなで亡くなった方と深く関われば、お別れの機会ができるんです。火葬だと、何十年も付き合った人であっても別れを惜しむ間もなく焼却炉に入れられて、骨になってしまう。これがなんだか切なくて、いまでも馴染めません」
※省略
記者は尾羽根を後にし、続いて奈良市田原地区(旧田原村)に向かった。実はこの村落も、いまや数えるほどとなった土葬の文化が残る土地である。
尾羽根から車で5km南下すると、水間町という大きな集落に出る。ここを通り抜けて西に5km進むと、田原地区に辿り着く。山あいに広がる茶畑が美しく、奈良の奥座敷とも言われている。
ここに住む瀬川愛子さん(仮名、72歳)の母、たえさんは’13年に亡くなったが、生前から何度も「私が死んだら、必ず土葬にしてほしい」と話していたという。愛子さんはこう振り返る。
「よく『火葬は熱くてかなわん』と言っていたので、『死んだら熱いも何もわからんやんか』と返すと『それこそ死んだ先のことなんて誰にもわからん。故郷の土に還るのが一番や』とピシャリ。その考え方も一理あると思ったので、8年前に亡くなったときは土葬で送りました」
■すべては自然に還る
たえさんのような理由で、土葬を望む人は多い。田原地区大野町のバス停を降りると、すぐ目の前に真言寺院・十輪寺がある。ここで住職をしながら土葬の導師も数多く務めたことのある森崎隆弘さんを訪ねた。
「真言宗の開祖・空海が残したとされる短歌に『阿字の子が 阿字のふるさと 立ちいでて また立ち帰る 阿字のふるさと』というものがあります。人は阿字(万有の根源)から出てきて、亡くなったら阿字に還るという意味です。簡単にいえば『すべては自然に還る』ということで、真言宗のもっとも大切な教えのひとつとなっています。この発想は土葬ときわめて近い。檀家が多い田原地区に、土に還りたいと願う人が多いのは不思議なことではありません」
ただ、内心では土葬を望んでいても、「迷惑をかけたくない」という気持ちが強いあまり、火葬を選ぶ人が増えている。田原地区に住む80代の男性はこう嘆息する。
「昔は周囲の人に助けてもらいながら田んぼの稲を刈り取っていました。ところが、機械化が進んでから家族だけで事足りるようになった。住民同士の付き合いも疎遠になります。その結果、近所の人に頼んでまで土葬をしようとは思わなくなったんです」
いまやコロナ禍によって、葬式自体が、全国的に簡素化されていく流れにある。土葬はやがて、この日本から姿を消す運命にあるのかもしれない。(続きはソース)
8/31(火) 7:02配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210831-00086747-gendaibiz-life
続きを読む
Source: 理系にゅーす