「鬼」とは、もともと「死霊」だった?
「鬼」のすみかと見なされるところは、不思議なほど「山」が多いようである。「鬼」の中の「鬼」と恐れられた「酒呑童子」が潜む大江山をはじめ、身の丈30メートルもある大盗賊「大嶽丸」(おおたけまる)の鈴鹿山、第六天魔王の申し子「鬼女紅葉」(きじょもみじ)の戸隠山(とがくしやま)等々、そのすみかは、いずれも申し合わせたかのように、「山」である。これに疑問を抱いた人も、少なくないのではないだろうか。その謎について考えてみたい。
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具体的には、マタギや炭焼き職人、鍛冶屋、鉱山師などの山の民が、人里離れた山でひっそりと暮らしていた。里人にとっては関わりが少なかったがゆえに、彼らを得体の知れない人々と考えたとしても不思議ではない。
特に鍛冶屋などは、ふいごで目や足を痛めることも少なくなかった。そんな彼らをたまたま目の当たりにした里人が、その姿を恐れたがゆえに、「一本足」や「一つ目」などの鬼と見なされて語り継いだ可能性も考えられる。
また、同じく山中に身を置き、山岳宗教の担い手であった山伏(やまぶし)の風体や言動も謎めいていた。そこから「天狗」や「役小角」(えんのおづぬ)などのイメージが形成されたことも想像できそうだ。
さらに、街道を行き交う人々にとって、険しい峠越えは、体力の消耗以上に危険極まりない難関であった。いうまでもなく、旅人を襲う盗賊が待ち構えていたからである。その盗賊を「鬼」と見なして誕生したのが、前述の「酒呑童子」やその配下の「茨木童子」「羅生門の鬼」などである。
山で遭難して戻れなくなってしまった人たちも、残された人からみれば、何者かに拐(さら)われたか、あるいは雲隠しにでもあったと思われたに違いない。それも「鬼」の仕業と考えられたとしても不思議ではない。
柳田國男が著した『山人考』にも日本各地の山に言い伝えられてきた不思議な出来事が綴られているが、そこには罪を犯したり、何らかの事情によって里で暮らせなくなって山へと逃げ込んだ人々の他、気が触れて引き寄せられるように山へ逃れていった女性たちの姿も描かれている。そんな女性たちも、ボロボロになりながらも何とか生き延び続けたことで、これまた偶然出会った里人から「山姥」(やまんば)と見なされたのではないか。「安達ヶ原(あだちがはら)の鬼婆」や「鬼女紅葉」「雪女」などがその類(たぐい)だろう。
さらに、もう少し時代を遡ってみよう。縄文人が山の民で、弥生人が田の民と単純に見做すことはできないかも知れないが、稲を手に新たにやってきた人々が、先住民であった山の民を畏怖の念をもって「鬼」と見なしていたとも考えられそうだ。
その後権力者が現れるようになると、四方を征服する中、「まつろわぬ民」を退治すべき「鬼」と見なした。それが「土蜘蛛」や「大嶽丸」「悪路王」「弥五郎どん」「両面宿儺」(りょうめんすくな)などと呼ばれる、本来は各地方で穏やかに暮らしていた人々あるいはその棟梁たちであった。
興味深いのは、その「土蜘蛛」の名が『日本書紀』にも登場する点である。山の神・大山祇神(おおやまつみのかみ)や木花開耶姫(このはなさくやひめ)などは、天津神こと征服者であったヤマト王権の権力者にとっては、いわば征服された側の一族である。幸いにも彼らは国津神として崇められる存在となったが、それに反して未だ王権に反抗し続けた「まつろわぬ民」は、「鬼」と見なされて討伐すべき存在と見なされた。それが、同書にも記された「土蜘蛛」であった。
一説によれば、渡来人もまた鬼と見なされたこともあったようだ。桃太郎に退治された百済の王子「温羅」(うら)や、中国からやってきたという「河童」などもそれに該当するのかもしれない。
謎めく山の民が、「鬼」の正体だったのか?
つまるところ、「山」こそ、得体の知れない人々が暮らすところだと認識されていたことが、「鬼」のすみかと思われるようになった一因であった。(以下ソース)
5/12(金) 11:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/78c94eb1192b70c6bdf7d1fba23f32dcb49528f5
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230512-00027529-rekishin-000-1-view.jpg
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Source: 理系にゅーす